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遺跡の発掘調査の現場を見てみよう!平安時代の最大級の貴族邸宅跡はこうして分かった

Mami
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こんにちは、SORESEKAこと「それは、世界遺産がきっかけだった。」編集長のMamiです。

 

京都市中京区にて「平安京の遺構としては最大規模の貴族邸宅跡が見つかったと」のニュースを目にし、調べてみたら説明会がちょうど行われるとのことだったので、早速、遺跡発掘調査の現地説明会に参加してきました。

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今回の遺跡発掘調査の概要

  • 今回の調査地は、当時の住所表記では、平安京右京三条三坊五町
  • 平安京全体からみると中央部西寄りにあたる
  • 平安時代前期の掘立柱建物跡が4棟と溝が発掘された
  • うち1棟は建て替えが行われていることが分かった
  • この建て替え後の棟が、桁行7間×梁間2間の身舎の南面に庇がつく、平安京内でも最大級の大型邸宅(=貴族邸宅)であることが分かった
  • 高級品である灰釉陶器や緑釉陶器も多数出土

京都市埋蔵文化財研究所
「島津製作所工場新築に伴う発掘調査 現地説明会資料」より抜粋

発掘調査の現地説明会はこんな感じ

発掘現場には、老若男女問わず、すでに沢山の人達が集まっていました。

久しぶりの発掘現場で、わくわく♪

以前は考古学好きのご年配の方ばかりでしたが、最近は若い人も多く見かけるようになりました。

 

入口では資料を頂きました。

 

時間になると、まずは貼り出された遺構概要図や平面図を使いながら、京都市埋蔵文化財研究所の方が概要を説明してくれます。

人が多くて貼り出された図面が見にくくても大丈夫。

先ほど入口でもらった資料にも、同じ図面を用意してくれています。

 

ご存知の通り、平安京は東西南北で区画された方形の都でした。

今回の大型建物が見つかった調査地(■部分)は、平安京全体からみると中央部西寄りにあたり、平安宮つまり当時の天皇が暮らしていた大内裏に近い場所だったことが分かります。

建物の規模や出土品はもちろんのこと、この立地からも、建物の所有者は身分が高かっただろうことがうかがえます。

 

そして過去に2度、この地域では発掘調査が行われていたとのこと。

特に1988年調査区(図面下側)からも、平安時代前期の2棟の大型建物や当時の高級品である灰釉陶器や緑釉陶器がまとまって出土していました。

 

そして今回の調査区では、平安時代前期の掘立柱建物跡が4棟と溝の遺構が発掘されました。

特に図面中央にある、便宜上「建物1」とされている建物は、建て替えの跡がハッキリと遺構から読み取れるとのこと。

現場を見るのが楽しみです。

 

いよいよ発掘現場へ!

とにかく広い現場で、これでもまだ調査予定地の半分(約2,400㎡)とのこと。

 

発掘現場でも担当の発掘調査員の方が遺構の説明をしてくれます。

遺構に人が立つと規模感が分かりやすいです。

ちなみに現場は地表から深さ約2mまで掘り下げられています。

あちこちにある穴ぼこが掘立柱建物の柱穴跡です。

 

現地説明会ということもあり、発掘された遺構部分は分かりやすいように、あえて少し掘り下げられています。

また身分の高い貴族の邸宅跡と分かった「建物1」では、時期の前後関係が分かりやすいように、各遺構にはそれぞれ色分けがされています。

白いのが古い方で、便宜上「建物1古」
ピンクのが新しい方で、便宜上「建物1新」

 

「なぜ白い方が古いって分かるの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

その答えは「切り合い関係」が見て取れるからです。

 

写真をよくご覧いただくと、白い方にピンクが切っています(食い込んでいます)。

これは白いのを壊してからピンクをつくった場合でないと生まれない状況なので、白い遺構の方がピンクの遺構よりも古いと分かるんです。

そして遺構が重なり合っていることから「建て替え」が行われたことが分かります。

ちなみに「切り合い関係」がこんなに綺麗に残っているのは珍しいらしく、今回の調査成果の一つとのことでした。

 

さらに柱穴跡が南側に向かって楕円形になっていることから、後の時代に建物を取り壊した際には、南側に柱を押し倒したことが推測されるそうです。

 

こうして時期の前後関係が分かった柱穴跡をそれぞれ辿っていくと、

ブルー線で囲まれた部分が旧建物
ピンク線で囲まれた部分が新建物

 

写真では分かりにくいと思いますので、平面図を活用すると

黄色が旧建物
緑色が新建物

建築技術の進歩もあってか、東西に柱が1本ずつ追加され、桁行5間から桁行7間へ、建物が大きくなっています。

 

こうして「建物1新」は東西約21m、南北約9mの東西棟で、桁行7間×梁間2間の身舎の南面に庇がつく、平安京内でも最大級の大型邸宅であることが分かりました。

 

【ざっくり建築用語の解説】

  • 桁行(けたゆき)とは、家の「長い方」の長さです。
  • 梁間(はりま)もしくは梁行(はりゆき)とは、家の「短い方」の長さです。
  • 間(けん)とは、柱と柱の間の数を指します。平面図(上の写真)にある東西方向(長辺の方)の緑色の柱穴を数えると8個あります。つまり8本の柱があったので、柱間は7で、桁行7間となります。
  • 身舎(もや)とは、本体部分つまり母屋です。

 

こうなると次は誰がこの豪邸の主だったのか気になりますよね。

こんな大邸宅を所有し、天皇の近くで暮らしていて、高級陶器を多数所持。

どんな貴族だったのか、平安時代なんだから文字で記録が残っているはず!

 

…残念ながら、1000年以上の時の中で記録は失われてしまい、所有者は分からないとのことでした。

 

ただ天皇の平安宮に近く、敷地が1町(約120m)四方に及ぶことから、都に数名しかいなかった三位以上の官位を持つ貴族と考えられるそうです。

 

他には、「建物3」からは柱を支えるために使われた沢山の石が詰まった状態で遺構が見つかりました。

頑丈な建物を建てる際に使われる技法なので、食糧庫や備品庫だったのかもしれません。

 

また「溝1」は「建物3」の北西側を囲うように屈曲しているため、邸宅内を区画していたと考えられるそうです。

 

さらに「溝2」「溝3」からは多数の灰釉陶器・緑釉陶器・土師器・須恵器が出土。

調理具として使われた須恵器の鉢や土師器の甕なども出土していることから、当時の台所「御厨(みくりや)」とみられる跡ではないか、とも話されていました。

 

当時の姿を想像しやすい、驚くほど分かりやすい説明をして下さり、あっという間の楽しい時間でした。

 

最後は出土品を見学できました。

柵越しやケース越しではなく「生」で見せてもらえました。

※もちろん触るのはNGですし、バックやカメラが遺物に当たらないように要注意です。

 

緑釉陶器や灰釉陶器は高級品でした。

こうした高級陶器が多数出土しているのも、建物の所有権が身分の高い貴族だったことを裏付けています。

 

こちらは隣接地から出土した灰釉陶器ですが、1,000年以上前のものとは思えないほど艶があり趣があります。

 

平安時代の硯(すずり)です。

和歌などを詠んでいたのでしょうか。

 

土師器や須恵器は受験勉強で覚えたという方もいらっしゃるかもしれません。

 

櫛や帯飾りなど、現代女性にも通じる備品も出土しています。

 

獅子頭形陶枕という大変珍しいものも隣接地から出土していました。

 

よくよく見ると、愛嬌のある顔…かな^^

 

調査はまだまだ続き、今後は北半分も発掘されるとのこと。

どんな新しい発見が待っているのか、古代ロマンは尽きません。

 

以上、遺跡の発掘調査 現地説明会のレポでした。

遺跡好きの方に、少しでも現場の雰囲気が伝われば嬉しいです。

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